嵐の活動休止まであと一年半。

7月を迎えてしまった。

年が半分過ぎてしまった。

嵐が確実に嵐でいてくれるまであと1年半。

1月の発表の時は混乱でいっぱいで冷静に考えられなかった。歌番組が見れなかったのを思い出す。いま2019年7月現在は歌番組は観れるようになった。ただ、見るのが恐ろしくしんどい。SONGSも30分の番組のはずなのに5回くらいに分けて見た。2020年末にあるであろう沢山の歌番組出演、活動休止前最後と言われるであろう歌番組の数々に私は耐えきれるのだろうかと思う。

活動休止が発表して今までいろんなことを考えた。

1つ、わかったことがある。

私はもう、活動休止を発表する前と同じ気持ちでは嵐を見ることができない。

今は嵐に対して真っ直ぐに、ストレートに、好きとは言えない。

もちろん変わらず好きである。好きだけれど2020年末のことを考えると今から憂鬱である。

一昨日、ワクワク学校に行った。ワクワク学校、もう嵐はやらないらしい。これから嵐は活動休止に向けて沢山のものを手放すだろう。

ワクワク学校もそう、レギュラー番組もそう、CMも、雑誌の連載も、、沢山のものを嵐は抱えて居たからこそ手放すものも多い。その手放す瞬間を何度も何度も見なくてはならない。

見なくてはならないとは、ただのファンのエゴ。見たくなかったら見なければいいのに見ないともっと後悔する気がする。私はやらなかった後悔の方が大きいことを短い人生の中で少しは感じ取っているらしい。

2021年以降の私はどうなっているのかいまから心配である。

 

嵐は大人である。嵐は活動休止を発表したときも、発表する前の話し合って居た時期も、常にフラットな感情でいる。

嵐はあくまで嵐のままでいると決めているのかもしれない。

それに比べ、私は子どもだ。私は嵐に対してもっと嵐でいたい、嵐活動休止は悲しい、と嵐自身に感情を露わにして欲しいと願う自分がどこかにいる。

嵐の活動休止を発表してから自分のエゴを嵐に押し付けてしまっているのかもしれない。伝わらないのに。伝えられないのに。

今まで嵐に対してこうして欲しい、ああして欲しいとはあまり思わなかったと思う。嵐は仕事量が多く、供給量もそれに従い多かった。需要と供給は確実に満たされ、むしろ供給の方が多いのではと感じる場面も多々あった。

だかしかし、ワクワク学校はもう嵐はやらないと発表するのを直接聞いた時、需要は多いのに供給が少なくなっていく現実を目の当たりにして泣きそうになってしまった。需要と供給のバランスはこれからも崩していくのだろう。崩さなくてはならないのだろう。

 

嵐活動休止は本当に悲しい。私のiPhoneに入っている数々の嵐の楽曲は、毎日のように聞いていた嵐の楽曲は、1月の発表から一度も聞いた記憶がない。まだ受け入れきれていない。そんな自分が憎い。嵐活動休止を素直に受け入れない自分が憎い。かといって、どうしようもない。喚いても叫んでももし仮に私が活動休止が辛過ぎて自殺しても(絶対にしないけど)嵐は活動休止を取り消すことはない。

わーわー喚いたって何も起きない。知っている。知っているけど喚かせてくれ。

 

気持ちの整理はいつまでも、つかない。